不登校 毒母 モラハラ(自己愛)の記録と考察

不登校の娘、自己愛性人格障害の母親と向き合った記録とその考察

全く登校できなくなった娘

【家から出られない】

 

あれは、小学校3年生の3学期が始まる頃でした。
娘は学校へ行けたり、休んだりを繰り返し、

まるで三寒四温のように
完全な「休み」へと向かって進んで行きました。

 

朝、ランドセルを背負って

玄関のドアの前から一歩も動かない娘。

「いいよ おいで」 と声をかける私。

 

ランドセルを背負わない娘、

 

服を着替えない娘

 

と 朝の状況はどんどん変化していきました。

 

夕方、娘と一緒に買物に出かけると、

友達のママたちは今時、珍しくもない「他人事」らしく

「◯◯ちゃん、元気?大丈夫?」とスーパーで

簡単な挨拶をしてくれ、

(少し気にしてる程度に)振る舞ってくれます。

逆に心配や過剰に反応されると困ってしまうの部分もありましたので

私にとってはありがたかったでのです。

 

10日のうち、2〜3日行ける から ほとんど行けない、

そして、 全く行けなくなる のに そんなに時間は掛かりませんでした。

2か月位だったと思います。

それまでは(すこし休みが多いな) と感じる程度でした。

それこそ、入学式は誰よりもやる気満々な娘でしたから。

 

 

 

実は、

行けたり、行けなかったりしていたときより、

完全に行けなくなった頃のほうが 精神はラクでした。

物理的には朝がラクになりました。

朝、娘や自分を責めなくていい。

もう いいんだ。と

一日頑張って 生きているだけでも いいんだ と

多少なりともポジティブに考え方の向きを

変えられることが出来ました。

 

モヤモヤしていた時期は

担任や養護(学校カウンセラー)の先生に

「どうにか◯◯ちゃんが授業を受けられるように一緒に考えましょう」と

色んな方法を考えたり、行動したりして

頑張っていました。

焦りや、落胆や、そんな感情が日々、目まぐるしく揺れ

私も、娘も すっかり心が疲れ切っていたのです。

 

「もう一ミリも学校のことを考えられない」状態になったとき、

諦めの境地に 一旦、降り立った感覚になりました。

「行ける行けない」から解放されたのです。

あくまでも、 一旦、ですが

娘も私と似たような感覚ではなかったかと思います。

朝は、娘を起こすだけ起こして 干渉せず、見守る。

ただ、私はリズムのある生活だけ守る。

そんな日々が過ぎていきました。

 

しかし、

張り詰めていた気持ちの糸が少し緩んだのも束の間でした。

 

 

【居場所がない】

うちの場合は、サザエさんのような実の両親との同居生活でした。
子育てにかなり消極的な夫と、過干渉な祖母と、祖父に

何故 学校へ行かないのかと 毎日言われ続けました。

部屋に入ってきては

祖父や祖母の "気が晴れる" まで

私たちはずっと文句やお説教を聞かされ続ける苦しい日々がまた始まったのです。

 

続く…