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不登校 毒母 モラハラ(自己愛)から脱出するまでの記録と考察

不登校、毒母 モラハラの三重苦から脱出するまでの記録とその考察

拒食について -時事ニュース、考察、遠足-

 

 

前回の更新からひと月も経っていました。

 

 

 

ご無沙汰しております。

 

最近、敬宮愛子さまがお痩せになっていますが

 

拒食を経験した人ならば、12月のお誕生日の時のお写真で

 

既にピンときたかと思います。

 

痩せるスピードが拒食症の場合違うんですね。

 

これは推測に過ぎませんが

 

敬宮愛子さまの環境は特殊です。

 

そして、拒食症になる条件が揃っています。

 

■ 母親が不安定

 

■ 常に干渉される立場(人の目があり緊張している状態)であること

 

■ 大きなプレッシャーの中にあること

 

■ ストイックな性格

 

この条件が揃ってしまうと

 

拒食になりやすいのです。

 

 

 

 私の経験から申しますと、

私自身 不登校ではありませんでしたが、

学校、自宅 に自分の居場所はありませんでした。

どちらに居ても人の干渉や目があり、

落ち着く場所は主にお寺、神社、広い公園でした

恐らく、人いきれから離れ 自然の中に抱かれる心地よさがあったのでしょう。

しかし、小中学生の時分は そう長い時間外に居られませんから

殆どの時間が緊張の時間でした。

いつも体に力が入っており、アドレナリンがいつも出ている状態、

いわゆる、戦闘状態なのです。

アドレナリンが出ると、食欲は自然になくなります。

 

緊張しているとき、沢山食べられないことってありませんか

 

それがいつも続いている状態なのです。

どんなに美味しいものが並んでいても、食べたい気が起こらないのです。

 

 

敬宮愛子さまのお話に戻りましょう

ご公務にも参加されるようになり、緊張を強いられる状況が多くなれば

恐らく、ストイックなご性格に拍車がかかり、

現在は、(想像の範囲ですが)ご本人は「食べなくては」と

それがまたプレッシャーになり、食べようとしても食べられない状態では

と 私は推測します。

お健やかな状態にお戻りになられたいでしょうし、

周囲もそれを願っているのでしょうが

その焦りが、逆に仇となり悪循環に入られていると想像してします。

国民も周囲も普段通り、今まで通り、静かに見守って欲しいと心から

祈っています。

 

夏のキャンプ合宿

さて、今回は前置きがかなり長くなりました。

前々回の末文に書いたお約束「キャンプの思い出」の話です。

 

小学校3,4年の夏だったと思います。

残念ながら私の記憶はとても断片的なので、そこら辺はご容赦ください。

(これは、脳が辛かった記憶を思い出さないようにしているのだそうです)

キャンプではサポートスタッフの大学生等が一緒に参加し、

食事の部分のサポートも入ります。

自分の居た班が現地に着いた際

班に一人ずつ配属のスタッフから注意事項が言い渡されました。

「食事を残さないで食べた人は100点をあげます。

 残した量で点数が引かれます。残してはダメです。

 お代りをした人はプラス10点ずつ加算です。」

私は頭が真っ白になってしまいました。

今でこそ、アレルギーだの、個人の体調を尊重しますが

私の小学生時代は そんな配慮は皆無でした。

私は、そのプレッシャーに負け、キャンプでは必ず食事前に緊張し

吐き気を覚えました。

数十年たった今でも、とても驚き、理不尽なルールに悩みました。

 

いま、タイムトラベラーになり、過去の自分に伝えるならば

「食べられる量はみな違う、気にせず食べたい分だけ食べればいい。

 それがいまあなたの体が必要としている量なのだから

 そして 人が人に点数をつけるほど愚かなことはない」 

 と。

 

もし、今まさに 食事の量で悩まれている人がいらっしゃったら

どうぞ、 気にしないでください。

自分に強く干渉してくる人からすこし距離を置いて

ひとりの時間を持つことを 恐れないで欲しいと心から思います。

自然の中で風に吹かれたり、

一日何回でも 自分を許してあげたり してくださいね。

 

 

季節は変わり目 春に向かいます。

お大事になさってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他人の感情に振り回されない

冷静に考えてみると、

なんで、私が私以外の人間の感情に

振り回されるんだろう。

 

怒っている人や

文句を言ってる人や

忠告や、

世話焼きや

してあげたい や

アドバイスや、

説教や

 

すべて

 

自分以外の 家族であったり、

友達であったり

完全に人の事。

 

そんな感情に

自分の心が乱されることを

私は許しません。

 

「千葉ちゃんはメンタルが強いね」と言われますが

① 人と自分を切り離して考えているのと、

② 人の暴言を受け止めていない

ので、 

一喜一憂して時間を取られる位なら

自分の心をコントロールして

(ふぅん)程度に していれば

自分のために使う時間が増えて

とてもいいのです。

 

 

【前回のつづき】

上記に書いたことは、

同居する家族からの圧を乗り越えるために

自分がある程度の努力をして身につけた事です。

 

自己愛性人格者の私の母は躁病も持っていました。

機関銃の様に 母の言葉に被弾するわたしと娘。

娘は涙を流して耐えていました。

 

躁病のせいなのか分かりませんが、

母親の感情が高ぶって機関銃言葉になる時、

人の声や言葉や表情は母の耳に届きません。

情愛や、情緒、慈悲は完全に母の中で

腐海の底に沈んでしまっています。

今から考えると

私も娘も母親も可哀想な状態です。

 

この日常は

"娘の精神発達に大きなマイナスを産むだろう”と

想像しました。

物理的になるべく 同居の時間を減らす策を練りました。

辿り着いたのが

不登校の子供が通う居場所、

いわゆる フリースクールなどです。

 

早速 私は、インターネットや

地域の新聞などを調べ

① 近い、

② ひとりでも通える

③ スクールの運営状況

(見学するとある程度の空気が分かるはずです)

 

この3つを最優先条件として探し始めました。

 

つづく

 

■ 問題があれば解決していく

いきなり大きな問題にとりかかるのではなく、

小さなひとつひとつをクリアすればいい。

 

 

 

 

 

全く登校できなくなった娘

【家から出られない】

 

あれは、小学校3年生の3学期が始まる頃でした。
娘は学校へ行けたり、休んだりを繰り返し、

まるで三寒四温のように
完全な「休み」へと向かって進んで行きました。

 

朝、ランドセルを背負って

玄関のドアの前から一歩も動かない娘。

「いいよ おいで」 と声をかける私。

 

ランドセルを背負わない娘、

 

服を着替えない娘

 

と 朝の状況はどんどん変化していきました。

 

夕方、娘と一緒に買物に出かけると、

友達のママたちは今時、珍しくもない「他人事」らしく

「◯◯ちゃん、元気?大丈夫?」とスーパーで

簡単な挨拶をしてくれ、

(少し気にしてる程度に)振る舞ってくれます。

逆に心配や過剰に反応されると困ってしまうの部分もありましたので

私にとってはありがたかったでのです。

 

10日のうち、2〜3日行ける から ほとんど行けない、

そして、 全く行けなくなる のに そんなに時間は掛かりませんでした。

2か月位だったと思います。

それまでは(すこし休みが多いな) と感じる程度でした。

それこそ、入学式は誰よりもやる気満々な娘でしたから。

 

 

 

実は、

行けたり、行けなかったりしていたときより、

完全に行けなくなった頃のほうが 精神はラクでした。

物理的には朝がラクになりました。

朝、娘や自分を責めなくていい。

もう いいんだ。と

一日頑張って 生きているだけでも いいんだ と

多少なりともポジティブに考え方の向きを

変えられることが出来ました。

 

モヤモヤしていた時期は

担任や養護(学校カウンセラー)の先生に

「どうにか◯◯ちゃんが授業を受けられるように一緒に考えましょう」と

色んな方法を考えたり、行動したりして

頑張っていました。

焦りや、落胆や、そんな感情が日々、目まぐるしく揺れ

私も、娘も すっかり心が疲れ切っていたのです。

 

「もう一ミリも学校のことを考えられない」状態になったとき、

諦めの境地に 一旦、降り立った感覚になりました。

「行ける行けない」から解放されたのです。

あくまでも、 一旦、ですが

娘も私と似たような感覚ではなかったかと思います。

朝は、娘を起こすだけ起こして 干渉せず、見守る。

ただ、私はリズムのある生活だけ守る。

そんな日々が過ぎていきました。

 

しかし、

張り詰めていた気持ちの糸が少し緩んだのも束の間でした。

 

 

【居場所がない】

うちの場合は、サザエさんのような実の両親との同居生活でした。
子育てにかなり消極的な夫と、過干渉な祖母と、祖父に

何故 学校へ行かないのかと 毎日言われ続けました。

部屋に入ってきては

祖父や祖母の "気が晴れる" まで

私たちはずっと文句やお説教を聞かされ続ける苦しい日々がまた始まったのです。

 

続く…

 

 

摂食障害について

このブログを書く感覚は、

『娘の不登校

『若い時の私の摂食障害

『毒母』(ミュンヒハウゼン症候群の疑い)

『自己愛性な夫のモラハラ

『虚弱体質で病気、手術と戦ってきた自分』

なるパズルを 全て混ぜ合わせた状態です。

 

このとっ散らかったパズルをそれぞれに分けながら

いつか 完成出来るといい と思っています。

否、膨大過ぎて完成しないかもしれないこともあるかもしれません。

それくらい、果てしない感覚の中に私は居ます。

 

パズルのフレーム部分が組み合わさるまで、

まず、そこら辺を目標にしましょう。

ベイビーステップです。

 

さて、そろそろ今回の本題です。

 

私には、自分と向き合い、

これからの自分のため、或いは同じことで今苦しんでいる人のために

ここに吐露していかなければならないことが

数多くあります。

摂食障害もそのひとつです。

 

摂食障害は長年 情報を得て、勉強した結果、

毒母と(以後→母親)関係が深いことが分かってきました。

 

私の場合は母親の過干渉でした。また、放置でもありました。

まさに、その両極が存在しており、

それがいつも不安定でアンバランスなのです。

父親も母親も仕事柄 家にずーっといます。

ものごころついた頃には

既に「食べること」は私にとって苦手なことに分類されていました。

 

実は、小さい頃の記憶が殆どありません。

精神科医の話では「辛い記憶を消す為に脳が行っていること」だそうです。

 

小学校の頃は時系列が曖昧で 低学年に向かって

記憶の数は少なくなり、

幼稚園以前の記憶はほとんど思い出せません。

小児病棟だったり、手術台だったり

とても断片的で数えるほどです。

麻酔や投薬、精神的負担も記憶を引き出せない原因になっていると思います。

思い返せば

看護師さんが持ってきたバナナ、食事の時間でもないのに急に持ってきたバナナ

これを無理やり食べさせられたことが

自分からすすんで食べたい感情を奪い去ってしまったように感じています。

 

ある日の小児病棟の夕食はハンバーグでした。

とても美味しそうな匂いがします。

私は食べたかった、そう...記憶しています。

しかし、私だけ(術前か治療のため)食べられなかった思い出があります。

泣いたっけ? そんな事すら思い出せません。

 

食べたくない時に食べさせられたり、

逆に、食べたいときに食べられなかったことも

食事に対しての 感情を不安定にさせるには

充分な要因だったでしょう。

 

小学校の給食はいつも残していました。

なぜ、給食を全部食べられるのか

私には不思議でした。

私の摂食障害は知らぬ間に

とっくに始まっていたようなのです。

 

次回 摂食障害の話は「キャンプの思い出」の予定です。

さて、次の更新は母について書こうか、不登校についてか

ありすぎて迷いますね。

 

では〜

 

小学三年の三学期辺りから

ある日

娘はまったく登校出来なくなりました。

何故、登校出来ないか

その原因はまったく分からず

今まで なだめたり すかしたりして

なんとか学校に行かせていましたが

術がなくなりました。

 

それは、いま考えると

人生に於ける学びのきっかけだったのかもしれません。

 

本当に少しずつですが

自分にとっては、記録として

コツコツ書いていこうと思っています。

 

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