不登校 毒母 モラハラ(自己愛)から脱出するまでの記録と考察

不登校、毒母 モラハラの三重苦から脱出するまでの記録とその考察

母親のこと

久しぶりの更新です。

毎日暑いですね。そして東京はもう秋の気配が漂っています。

 

今日は私の実の母親の話を書こうと思います。

時間的リアリティがありましたので、8月14日の日記をそのまま転載してみました。

 

ここ3日、用事で実家滞在の時間が増え、
お菓子ばかり食べていた。実家で安全に食べられるものはお菓子しかない。
母は挨拶代わりに開口一番
「アンタ、妊娠してるんじゃないの?」(以前私が子宮摘出の際お見舞いに来ているw)
とパンチを繰り出してくる。
私は母の手を握り
「子宮がない人にもうそんな事を言ってはダメだよ。」と言う。
「お腹ばっかりそんなに膨れてるからよ! なに?!そのお腹 」
これが実家へ帰った時の通常の挨拶となる。
母親は自分の言い放ったことを3歩歩くと忘れてしまうので
毎回これを繰り返す。
この間の海外旅行で旅行会社から丁寧な手紙と共に
母へ「出禁」のお知らせが届いていた。
母はとても憤っていて「会社に殴り込む」と言うので 警察沙汰にならないように
「お盆が明けたらまた考えようね」と背中を擦る。
「気持ち悪いから背中を撫でないで ! 肩を揉みなさいっっ!!」 と叫ぶ。
私は母親から離れて (今日はどこを掃除しようか)と家の中を見回すのだ。

 

母親は今年85歳になり、高齢者特有の頑固さやこだわりなども加味されて

増々難しい状態になっています。

 

 母に精神疾患があるのではと確信出来たのは私が30代半ばのときでした。

私が通院している不登校専門の精神科で私と娘の話を聞いていた医者が

「本当はお母さんが治療を受けて欲しいんだけどね、お母さんは私が想像するに重症だと思うんだ。お母さんと別々に住むことは出来ないかな? 私ができることは手配するから」と言いました。

(ああ、やはりそうなのか)私が幼い頃から感じていた曇天のような母の精神を

やっと他人の言葉で認めてもらったのです。

 

 私は以来 精神疾患に関する本などを読み漁り知識武装することにしました。

人格障害等、精神に病気がある人と真正面からやりあったり、
同じ土俵に立つのではなく、
その人を少し俯瞰で観察するのが賢い方法だと思うのです。

ある日読んだ 野村進 著「救急精神病棟」にはとても救われました。

この本には メンタルの病気をフィジカルの病気と同じ様に捉える事が大切だと書かれていました。
私は まだ多くの人がこれを出来ていないと実感しました。

電車の中でただれた精神を晒しながら”なにか”に向かって怒り続けている人や、

土砂降りの中、横断歩道に立ち尽くして一点を見つめる男性など

多く見かけますが 皆席を立って他の車両に移動したり、

友達同士笑って指を指したり、素通りしたり、人の取る行動は様々です。

どの行動が正しいとかではないのですが、

もし、うずくまったり、倒れたりしたら 駆け寄るのと同じで

警察などに通報して 速やかに保護してもらうことがいいのではと思うのです。

実は、興奮状態にある患者さんは数日水分も摂っていないらしいのです。

これは命にかかわることですが 脳が誤動作している限り 脱水していても

水分を摂ることが出来ないというわけです。

この本を読んだ後、私は学び、行動を変えることが出来ましたが

どうか、この意識が一般的に広がってほしいなと思うのです。

 

 私の母の場合はいつも「躁」であることが多く、

特に「躁ターボ」(私がそう呼んでいます)にスイッチが入りますと

鼻の頭に薄っすら汗をかき 言葉の放出を止めることが出来ず、

遠い耳は更に他の言葉を受け入れず 体中ガチガチに力が入ってしまい、

呼吸と瞬きの回数が3倍くらいになります。

この状態の時は何かに憤っていることが多いのですが

緊張を強いられる場面でも出現します。

以前こんな事がありました

一度、夜中に躁ターボが入り、急に掃除を始めたらしいのです。
翌日私に電話が掛かってきて
「掃除してたらね、足の上にハサミが落ちて血が止まらないのよ、どうしたらいいかしら」
明らかに上ずった調子の母です。
(足を怪我してから一体どれ位の時間が経っているのだろう?)と気を揉みながら
実家へ行き いまだににじみ出る大きな傷口にバンドエイドを一枚貼った状態で
興奮していました。私は状況を判断し、母を説得して 大きな病院へ連れて行きました。
母には分からないように筆談で受付に「躁状態」であることを伝え、
足の傷を縫ってもらいました。
抗生物質と一緒に安定剤なども処方してくださり、
帰宅してすぐにお茶を淹れ薬を飲ませました。
しばらくして躁ターボは収まってきたので
更に不足分の水分を摂ってもらい、自分もやっとアパートへ帰ることが出来ました。

もし、ご家族に精神を患っている人がいらっしゃいましたら
医療機関には英語やメモで精神的既往症を伝えられるようにしておくと
その後の色々がラクに進みますのでお薦めです。

母はよく怪我をします。体にいつも力が入ってしまうので
しなやかに動くことが出来ず転倒したり 指を深く切ることが多いのです。

躁は躁なりに辛いのだろうなと想像します。 

 

晩夏になりました。
秋のうろこ雲が眺められるのももうそろそろですね。

 

-母親のことについて-の次回は

母親の異常行動で振り回された私の時間 幼少編 を書いてみたいと思います。

またネタが増えてしまいました。

これからも沢山記録していけますように。

 

 もし良かったら コメントをいただけると励みになります

 

 

救急精神病棟 (講談社文庫)

救急精神病棟 (講談社文庫)

 

 

 

 

行方

過去の事をばかり書いていますが

気分を変えて現在のことも書いてみます。

 

娘は二十代前半でアルバイトをしながら

自分の夢を掲げて それに必要な努力 をしています。

夢はたくさんあるようで、今でも継続中です。

現在は物理的に忙しくなりアルバイトを辞め、転機に差し掛かっているようです。

先日、夢の1ステップが叶えられた様子で

娘から「CMが完パケしたよ」と連絡がありました。

海外のハイブランドのcm制作の話をいただいたそうで、

彼女にとっては初めての事でしたが 勇気を持ってお仕事を受けて良かったと言ってました。

 親としても嬉しい限りです。

 

 

 

いま、お子様が学校に行けず、

お辛い毎日を過ごされている方々もいるかもしれません。

しかし、わざわざ学校まで行き、疎外感を感じながら

思想の画一化をされ集団の中での型にはめた授業を受けるよりは、

こどもが社会で生きていく上で必要な勉強を一通り頭に情報として

親が与えてやればいいだけのことなのです。

勉強することや、生きていくことを学ぶことは

家でも、フリースクールでも、どこでも、いつでもよいのです。

親子の可能性(特に子供の可能性)は

無限だということをお伝えしたいと思います。

 

以前、娘が幼かった時の大変な日々が

時間を重ねるにつれ、

忘却され、消化され、化学反応を起こして

今という現実が形成されたのだなと思うのです。

今の私が過去の私を許しているような、

そんな気分でもあります。

 

人はいつも大小に関わらず、決断の連続です。

出かけるか、出かけないか、食べるか食べないかという日常の事から

進学するか、どこへ進むのか

全て自分で決めていますから

その選択を自分が熟慮して、納得して決めれば決めるほど

悔いなく前へ進めるような気がします。

 

親としての自分は、

娘が1人でもきちんと生きていけるようにする

ためだけと。とてもシンプルなスタンスでおりました。

 

具体的なことも書いておきましょう。

怒鳴ることや、ひっぱたくこともほぼ皆無です。

お尻を数回叩いたことはあると思いますが、お尻に限りでした。

兎に角 諭していくだけであり、

もし、部屋が片付けられないのなら

一緒に片付けようと声を掛け、

(人としてこう あって欲しい)と思えば、

自分の背中を見せる。

例えば、私の場合

家事を全部こなした後、作曲をするとか、趣味を楽しんでいる自分を見せることで 人生の愉しみを分かってもらえるといいなと希望していました。

いまは、この育て方でよかったと後悔はありませんが

当時は暗中模索でしたので、

孤独であり、自由であり、不安でありました。

ただ、「可能性は無限だ」という確信だけはなぜかありましたので

一生懸命やり遂げたら、あとは野となれ山となれの放置状態で

波の上をプカプカしていたような気がします。

 

きっと、これを読まれている子育て中の方々も大変だと思いますが

どうか

その時の一番良い方法を選択され、

あまり気負わず、小さい目標をクリアされていけますよう…

 

どんな未来も自分がクリエイトできることを

お伝えしたいです。

 

 

雑記 -感覚-

特に若い人のお葬式で 号泣している女学生たちの映像をテレビで見ると

私はどんと引いてしまうのです。

これは、恐らく学校での日常を号泣女学生に照らし合わせてしまうからでは と思うのです。

例えば、運動会や体育祭や 卒業式とかでの「団結!」とか「仲間」とかを意識して

大泣きしているのがちょっとした集団ヒステリー状態に感じてしまうのです。

あくまでも私の感覚なので、失礼だなっ と思われたらごめんなさい。

ー流した涙の数だけ幸せになれるよー と 言っておきます。

 

私にとって学校はアホらしい場所でした。

学生時代からそれはずっと感じていることで、

教師にも落胆していた部分が大きかったのではと思うのです。

画一化というのでしょうか

多数と同じであるほうが  "やっていき易い" 場所ですから。

もし、今でも 学校のあの感じ に違和感を感じていらっしゃる方には

共感していただけるのでは と思っています。

一度、教育実習として母校に教師として戻ったときにも

その感覚は変わっておらず、自分は自分に落胆しながら

「教えること」を頑張っていました。

 

学校に居場所が無く、家にも居場所がなく、

いつも緊張に置かれている状況は前回の記事でも書きましたが

あまり食欲が出ないものです。

その上、母親は片付けられない質なので

食事のテイスト自体は美味しいのですが

いつも不衛生で、必ずお腹を壊していました。

一概に不衛生だけが お腹を壊していた原因でもないと今では思えます。

恐らく私の体が弱い個体だったとも言えます。

江戸時代なら間違いなく夭折していたでしょう。

そんな体の弱い娘を一生懸命看病したい母はヒステリックに

その状況に酔っていたのだろうなあ と思い出すのです。

たまに流血を伴う暴力を振るったと思えば、(母が)無邪気に子守唄を歌う。

このアンバランスさはちょっとしたホラーで

そんな狂気の連続の中で育てられた私には

「学校行事」とか「友情」が 生ぬるいものに感じられたのかもしれません。

 

東京はすっかり初夏の陽気です。

新しい環境のかたも 穏やかな日常を過ごされている方も

良いゴールデンウィークになりますよう… 

 

 

 

拒食について -時事ニュース、考察、遠足-

 

 

前回の更新からひと月も経っていました。

 

 

 

ご無沙汰しております。

 

最近、敬宮愛子さまがお痩せになっていますが

 

拒食を経験した人ならば、12月のお誕生日の時のお写真で

 

既にピンときたかと思います。

 

痩せるスピードが拒食症の場合違うんですね。

 

これは推測に過ぎませんが

 

敬宮愛子さまの環境は特殊です。

 

そして、拒食症になる条件が揃っています。

 

■ 母親が不安定

 

■ 常に干渉される立場(人の目があり緊張している状態)であること

 

■ 大きなプレッシャーの中にあること

 

■ ストイックな性格

 

この条件が揃ってしまうと

 

拒食になりやすいのです。

 

 

 

 私の経験から申しますと、

私自身 不登校ではありませんでしたが、

学校、自宅 に自分の居場所はありませんでした。

どちらに居ても人の干渉や目があり、

落ち着く場所は主にお寺、神社、広い公園でした

恐らく、人いきれから離れ 自然の中に抱かれる心地よさがあったのでしょう。

しかし、小中学生の時分は そう長い時間外に居られませんから

殆どの時間が緊張の時間でした。

いつも体に力が入っており、アドレナリンがいつも出ている状態、

いわゆる、戦闘状態なのです。

アドレナリンが出ると、食欲は自然になくなります。

 

緊張しているとき、沢山食べられないことってありませんか

 

それがいつも続いている状態なのです。

どんなに美味しいものが並んでいても、食べたい気が起こらないのです。

 

 

敬宮愛子さまのお話に戻りましょう

ご公務にも参加されるようになり、緊張を強いられる状況が多くなれば

恐らく、ストイックなご性格に拍車がかかり、

現在は、(想像の範囲ですが)ご本人は「食べなくては」と

それがまたプレッシャーになり、食べようとしても食べられない状態では

と 私は推測します。

お健やかな状態にお戻りになられたいでしょうし、

周囲もそれを願っているのでしょうが

その焦りが、逆に仇となり悪循環に入られていると想像してします。

国民も周囲も普段通り、今まで通り、静かに見守って欲しいと心から

祈っています。

 

夏のキャンプ合宿

さて、今回は前置きがかなり長くなりました。

前々回の末文に書いたお約束「キャンプの思い出」の話です。

 

小学校3,4年の夏だったと思います。

残念ながら私の記憶はとても断片的なので、そこら辺はご容赦ください。

(これは、脳が辛かった記憶を思い出さないようにしているのだそうです)

キャンプではサポートスタッフの大学生等が一緒に参加し、

食事の部分のサポートも入ります。

自分の居た班が現地に着いた際

班に一人ずつ配属のスタッフから注意事項が言い渡されました。

「食事を残さないで食べた人は100点をあげます。

 残した量で点数が引かれます。残してはダメです。

 お代りをした人はプラス10点ずつ加算です。」

私は頭が真っ白になってしまいました。

今でこそ、アレルギーだの、個人の体調を尊重しますが

私の小学生時代は そんな配慮は皆無でした。

私は、そのプレッシャーに負け、キャンプでは必ず食事前に緊張し

吐き気を覚えました。

数十年たった今でも、とても驚き、理不尽なルールに悩みました。

 

いま、タイムトラベラーになり、過去の自分に伝えるならば

「食べられる量はみな違う、気にせず食べたい分だけ食べればいい。

 それがいまあなたの体が必要としている量なのだから

 そして 人が人に点数をつけるほど愚かなことはない」 

 と。

 

もし、今まさに 食事の量で悩まれている人がいらっしゃったら

どうぞ、 気にしないでください。

自分に強く干渉してくる人からすこし距離を置いて

ひとりの時間を持つことを 恐れないで欲しいと心から思います。

自然の中で風に吹かれたり、

一日何回でも 自分を許してあげたり してくださいね。

 

 

季節は変わり目 春に向かいます。

お大事になさってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他人の感情に振り回されない

冷静に考えてみると、

なんで、私が私以外の人間の感情に

振り回されるんだろう。

 

怒っている人や

文句を言ってる人や

忠告や、

世話焼きや

してあげたい や

アドバイスや、

説教や

 

すべて

 

自分以外の 家族であったり、

友達であったり

完全に人の事。

 

そんな感情に

自分の心が乱されることを

私は許しません。

 

「千葉ちゃんはメンタルが強いね」と言われますが

① 人と自分を切り離して考えているのと、

② 人の暴言を受け止めていない

ので、 

一喜一憂して時間を取られる位なら

自分の心をコントロールして

(ふぅん)程度に していれば

自分のために使う時間が増えて

とてもいいのです。

 

 

【前回のつづき】

上記に書いたことは、

同居する家族からの圧を乗り越えるために

自分がある程度の努力をして身につけた事です。

 

自己愛性人格者の私の母は躁病も持っていました。

機関銃の様に 母の言葉に被弾するわたしと娘。

娘は涙を流して耐えていました。

 

躁病のせいなのか分かりませんが、

母親の感情が高ぶって機関銃言葉になる時、

人の声や言葉や表情は母の耳に届きません。

情愛や、情緒、慈悲は完全に母の中で

腐海の底に沈んでしまっています。

今から考えると

私も娘も母親も可哀想な状態です。

 

この日常は

"娘の精神発達に大きなマイナスを産むだろう”と

想像しました。

物理的になるべく 同居の時間を減らす策を練りました。

辿り着いたのが

不登校の子供が通う居場所、

いわゆる フリースクールなどです。

 

早速 私は、インターネットや

地域の新聞などを調べ

① 近い、

② ひとりでも通える

③ スクールの運営状況

(見学するとある程度の空気が分かるはずです)

 

この3つを最優先条件として探し始めました。

 

つづく

 

■ 問題があれば解決していく

いきなり大きな問題にとりかかるのではなく、

小さなひとつひとつをクリアすればいい。

 

 

 

 

 

全く登校できなくなった娘

【家から出られない】

 

あれは、小学校3年生の3学期が始まる頃でした。
娘は学校へ行けたり、休んだりを繰り返し、

まるで三寒四温のように
完全な「休み」へと向かって進んで行きました。

 

朝、ランドセルを背負って

玄関のドアの前から一歩も動かない娘。

「いいよ おいで」 と声をかける私。

 

ランドセルを背負わない娘、

 

服を着替えない娘

 

と 朝の状況はどんどん変化していきました。

 

夕方、娘と一緒に買物に出かけると、

友達のママたちは今時、珍しくもない「他人事」らしく

「◯◯ちゃん、元気?大丈夫?」とスーパーで

簡単な挨拶をしてくれ、

(少し気にしてる程度に)振る舞ってくれます。

逆に心配や過剰に反応されると困ってしまうの部分もありましたので

私にとってはありがたかったでのです。

 

10日のうち、2〜3日行ける から ほとんど行けない、

そして、 全く行けなくなる のに そんなに時間は掛かりませんでした。

2か月位だったと思います。

それまでは(すこし休みが多いな) と感じる程度でした。

それこそ、入学式は誰よりもやる気満々な娘でしたから。

 

 

 

実は、

行けたり、行けなかったりしていたときより、

完全に行けなくなった頃のほうが 精神はラクでした。

物理的には朝がラクになりました。

朝、娘や自分を責めなくていい。

もう いいんだ。と

一日頑張って 生きているだけでも いいんだ と

多少なりともポジティブに考え方の向きを

変えられることが出来ました。

 

モヤモヤしていた時期は

担任や養護(学校カウンセラー)の先生に

「どうにか◯◯ちゃんが授業を受けられるように一緒に考えましょう」と

色んな方法を考えたり、行動したりして

頑張っていました。

焦りや、落胆や、そんな感情が日々、目まぐるしく揺れ

私も、娘も すっかり心が疲れ切っていたのです。

 

「もう一ミリも学校のことを考えられない」状態になったとき、

諦めの境地に 一旦、降り立った感覚になりました。

「行ける行けない」から解放されたのです。

あくまでも、 一旦、ですが

娘も私と似たような感覚ではなかったかと思います。

朝は、娘を起こすだけ起こして 干渉せず、見守る。

ただ、私はリズムのある生活だけ守る。

そんな日々が過ぎていきました。

 

しかし、

張り詰めていた気持ちの糸が少し緩んだのも束の間でした。

 

 

【居場所がない】

うちの場合は、サザエさんのような実の両親との同居生活でした。
子育てにかなり消極的な夫と、過干渉な祖母と、祖父に

何故 学校へ行かないのかと 毎日言われ続けました。

部屋に入ってきては

祖父や祖母の "気が晴れる" まで

私たちはずっと文句やお説教を聞かされ続ける苦しい日々がまた始まったのです。

 

続く…

 

 

摂食障害について

このブログを書く感覚は、

『娘の不登校

『若い時の私の摂食障害

『毒母』(ミュンヒハウゼン症候群の疑い)

『自己愛性な夫のモラハラ

『虚弱体質で病気、手術と戦ってきた自分』

なるパズルを 全て混ぜ合わせた状態です。

 

このとっ散らかったパズルをそれぞれに分けながら

いつか 完成出来るといい と思っています。

否、膨大過ぎて完成しないかもしれないこともあるかもしれません。

それくらい、果てしない感覚の中に私は居ます。

 

パズルのフレーム部分が組み合わさるまで、

まず、そこら辺を目標にしましょう。

ベイビーステップです。

 

さて、そろそろ今回の本題です。

 

私には、自分と向き合い、

これからの自分のため、或いは同じことで今苦しんでいる人のために

ここに吐露していかなければならないことが

数多くあります。

摂食障害もそのひとつです。

 

摂食障害は長年 情報を得て、勉強した結果、

毒母と(以後→母親)関係が深いことが分かってきました。

 

私の場合は母親の過干渉でした。また、放置でもありました。

まさに、その両極が存在しており、

それがいつも不安定でアンバランスなのです。

父親も母親も仕事柄 家にずーっといます。

ものごころついた頃には

既に「食べること」は私にとって苦手なことに分類されていました。

 

実は、小さい頃の記憶が殆どありません。

精神科医の話では「辛い記憶を消す為に脳が行っていること」だそうです。

 

小学校の頃は時系列が曖昧で 低学年に向かって

記憶の数は少なくなり、

幼稚園以前の記憶はほとんど思い出せません。

小児病棟だったり、手術台だったり

とても断片的で数えるほどです。

麻酔や投薬、精神的負担も記憶を引き出せない原因になっていると思います。

思い返せば

看護師さんが持ってきたバナナ、食事の時間でもないのに急に持ってきたバナナ

これを無理やり食べさせられたことが

自分からすすんで食べたい感情を奪い去ってしまったように感じています。

 

ある日の小児病棟の夕食はハンバーグでした。

とても美味しそうな匂いがします。

私は食べたかった、そう...記憶しています。

しかし、私だけ(術前か治療のため)食べられなかった思い出があります。

泣いたっけ? そんな事すら思い出せません。

 

食べたくない時に食べさせられたり、

逆に、食べたいときに食べられなかったことも

食事に対しての 感情を不安定にさせるには

充分な要因だったでしょう。

 

小学校の給食はいつも残していました。

なぜ、給食を全部食べられるのか

私には不思議でした。

私の摂食障害は知らぬ間に

とっくに始まっていたようなのです。

 

次回 摂食障害の話は「キャンプの思い出」の予定です。

さて、次の更新は母について書こうか、不登校についてか

ありすぎて迷いますね。

 

では〜